【店主note】写真集偏愛:熊谷聖司 写真集 写真は手ざわり
皆さんにとって「”写真”を観る」という時にある写真はどのようなモノでしょうか。
写真集という印刷された写真でしょうか。
展示会場でオリジナルプリントを、はたまた画面で写真を観ていますか?
そして、皆さんは写真集の写真、展示の写真、SNSの写真を観ている時は何を観て感じていますか?
かっこいい!
この写真好きだな。
こんな写真撮りたいな。
などなど様々かと思います。
熊谷聖司さんの最新刊『写真は手ざわり』を手にした時、改めて「写真を観る」ということを突き付けられたように思います。
本書『熊谷聖司 写真集 写真はてざわり』は額装の際に使用される厚手のマット紙で写真を挟むような造本になっており、見た目はまるでお見合いの際に渡されるポートレイト写真が挟まったブックのようです。
当店の大きなテーブルに他の写真集と一緒に本書を置いてみると、いわゆる写真集の印刷でよくみられる「オフセット」で印刷された写真と「インクジェット」で印刷された写真が並び、版画と同じ方法で印刷された「コロタイプ」の写真もこの本と一緒に並ぶことになります。
この印刷の違いは肉眼で観ても明確で、画像とは違う「印刷」だからこその面白さがそれぞれにあります。
普通は書店にこのような形で暗室プリントが並ぶことはなく、ただ写真集を探しに来たお客様が、写真集の表紙をめくるという普通の行為をした先に暗室プリントが待ち構えているという出会いは中々出来るものではございません。
当店では時々、暗室プリントを壁面に展示をしておりますが、それはガラスというフィルターを1つ挟んでおり、壁に飾られた状態で写真を観るということは、引いては空間と一緒に、そして額装と一緒に観るということになります。
=純粋に「写真そのものを100%体感出来ているか?」と聞かれると悩んでしまいます。
本書の1番重要なポイントは本という形で暗室プリントが見れるということ。
本書にはガラスの隔てはなく、真正面からプリントと向き合うことが可能です。
本を開くという、いつもの行為でプリントを観ると、プリントを購入した際につい思ってしまう「飾らなきゃ」という強要のような概念もなくなり、いつでもどこででも写真集を観るという常日頃の体勢で暗室プリントを味わえます。
と、言っても「写真集」と言われると、ページがあって、何枚も写真が見れるものと想像してしまいますが、本書は開いたら1枚の暗室で制作されたオリジナルプリントがあるだけ。
「はて?写真集とは?」と、思う方が続出するかと思います。
前述した何ページもある「写真集」という形にあてはめてしまうと「これは写真集ではないだろ!」と思わず言ってしまった人も納得してしまいます。
『熊谷聖司 写真集 写真は手ざわり』は、紛れもなく「写真集」ですが、
『熊谷聖司 写真 “集” 写真は手ざわり』でもあるのではないか?と私は思い始めています。
これまでに、当店を含め3ヵ所で発売された本書は、プリントの余白に暗室の数値が記録されています。それは、お料理で言う所のレシピに似たようなもので、その他に印画紙の名前や印刷した際に加えている行為までも記載されています。
レシピが解ったとて、同じものを作れるか?と言われたら....ちょっと無理があります。
湿度、温度、時間など環境による変化なども踏まえると同じものは出来ません。
だからこそ、本書は1点ものとなります。
数値を変更して違う色にふったバージョンや、モノクロバージョンなどは刊行する可能性がございますが、同じプリントは一生手に入りません。
ということは、発売されたら全部の販売箇所をチェックしに行かなきゃじゃん!という恐怖の本でもございますが、2026年8月現在、本書は100種類ほど制作され、ごく一部ですが拝見しながら思いました。
熊谷聖司。まだ爪を隠している。
と。
これまでに刊行された写真集では観たことがない、ドイツ写真のような建物を水平・並行ばっちりで捉え、風景がデザインしたように見える写真があったり、紫やベージュなど、やはりこれまでの写真集に印象がない色での写真があったりと、この作風も出来るの!?まだこんな爪を隠していたの!?と、驚かずにはいられませんでした。
1枚の強さがこの作品には存在していて、写真集はどうしても纏めなければないけないものなのだと改めて痛感させらた瞬間でした。
写真集を制作出来るほどの枚数を撮影してくるのは大変な労力で、それを本という形の上で編集するのは時間がかかります。
これまで写真集で見てきたものは、束に出来た、あるいは束になりそうな、熊谷さんの写真の一部でしかなかったということです。
そもそも、私が思うに熊谷聖司という人は、これまでに様々な写真集を刊行されて来ましたが「コンセプト」や「ジャンル」があって1つを制作するというより、熊谷さんの中に大きな大きな「写真」という宇宙が存在していて、その「写真」という宇宙内で銀河になったものを束ねて、本という形にしている印象です。
この熊谷さんが認識している測りきれない宇宙の片鱗を本書で垣間見てしまったと私は思ってしまったのです。
宇宙の中には、巨大な惑星もあり、いくつもの星が集まった銀河もありますが、1つの星もあるのです。
1つの星を束ねなければいけない写真集。
でも、熊谷さんの宇宙には数え切れないほどの「写真」があるはずです。
写真家はよくシャッターを切った瞬間を覚えていたりします。
どんな季節で、どんな天気で、どこで撮影して、どんな場面で、などなど。
それらの写真が蓄積された脳という宇宙は紛れもなく「写真」の「集」のはずです。
そして、改めて本書のことを考えると、「写真はてざわり」とあるように、熊谷さんの宇宙を形成している「写真」は手ざわりがあるものなのだなと。
色の選択、紙の選択、印刷の選択までやった「写真」。
写真家さんからしたら、印刷した写真と純粋に、何の隔てもなく、向き合うという行為はいつものことであり、鑑賞者の私たちにはそれは出来ません。
彼らが体感している「写真」そのものを体感出来る本としての形になった「写真集」であり、熊谷さんの「写真」「集」であり、その「写真」は「手ざわり」だという作品なのです。
熊谷聖司 写真集 写真は手ざわり。
本書は、何かを伝えるための「写真」ではなく、物質としての「写真」であり、その「写真」だけに没頭出来る唯一無二の作品だと思います。
皆さんにとっての「写真」はどのようなものですか。
写真集はページの枚数が無ければいけないものでしょうか。
写真を本当に観ていますか?
この作品で是非、写真を観るという行為を体感し、熊谷さんの宇宙の片鱗を垣間見て下さい。